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▼長渕剛 桜島オールナイトコンサートの
メインポールに掲げられたフラッグ
何故、私共がこのコンサートに協力することになったのか、いきさつから説明いたします。
このコンサートの1年ほど前、長渕剛本人が、あるテレビ番組の中で桜島コンサートに掛ける思いを語っていました。そのコンサートで彼は、
・ひとりで一晩中歌い続け、朝方にはもう声が出なくなっているかもしれない、
・あるいは立ってないかもしれない、
・倒れてしまって、そこで歌手生命が途切れてしまうのかもしれない…
と、その死ぬ気でやりぬく命懸けの姿勢に強く打たれた私は、なにか出来ることがあればぜひ協力させて貰いたいと願い、早速長渕事務所に手紙を出したのでした。
思えば、私が今の場所に工場を移転した1992年は父が亡くなったばかりで、仕事も経営も何もわからず我武者羅に働き、明け方近くまで一人で染めの作業をすることが幾度となくありました。
子供の頃、母親が
「お前も男やったぎぃーな、いっ度どま、け死んかぎい、キバっみらんか」
と、よく叱っていたものでしたが、その時の文句そのままの
『きばいやんせ』の歌を口ずさみながら様々な困難を乗り越え、今日までなんとか頑張ってこれました。そのことを長渕に感謝したくて、恩返ししたくて、このような協力を申し出たのです。
段取りにおいて、最初は舞台の上で、長渕本人に応援団と同じような大きさの旗を振り回してもらいたいと考え、2m×3mの旗を制作しましたが、この件はスケジュールの調整が無理ということで実現できませんでした。
ところで、私共の会社には、熱心な長渕ファンがいます。
その人がコンサートの2週間前に会場まで実際に歩いて行ってみたところ、溶岩と松とアスファルトだけの道で、「コンサートがこの先であるとはとても思えない、盛り上がりを全く感じない」と話していました。それならみんなで【のぼり旗】を作って道案内にしようじゃないかと提案したところ、社員たちもそうしてもらえたらお迎えする地元の者として、それに関わる事ができて有り難いことですと、賛同してくれました。
早速、長渕事務所に問い合わせたところ、「それは有り難いことです。ぜひお願いします。」と快諾してもらいました。
急いでコンサート準備中の桜島へ行き、企画運営の会社の方に事情を説明したところ、「我々も旗を作るつもりでいたが、ここは国立公園の中なので許可は出なかった。」と言われたのでした。しかし長渕事務所との約束もありキャンセル出来ませんので、取り急ぎ旗だけは先に染めるように指示し、国立公園事務所に相談しました。最初はダメだと言われましたが、「既に旗は作った」と言うと仕方ないと認めてくれました。しかし道路使用許可が絶対条件となりました。私はその日のうちに許可申請のため、管轄の鹿児島中央警察署に赴いたのです。
ところが、コンサート2日前であった為、担当官からは通常許可が出るのに2週間はかかるので、今からでは到底無理である、との返事が返ってきました。
「おまんさあーも明日あさってんこっじゃがなー、いま頃ゆっきたちー、間におーもんな」
(あなたねぇー、明日明後日のことを今言われたって、間に合いませんよ)
と言われてしまいました。その時は本当にもうダメかと意気消沈し、ガックリ肩を落として力なくその場にへたり込んでしまいました。
丁度その時、たまたま窓口を通りかかった3人連れの警察官のうちの一人が私に気づき、「田中さん、ないごっな」(どうしたんですか)と声をかけてきたのです。いったい誰だろうと思っていたら、なんとその人は、つい数日前まで鹿児島南警察署の交通課におられた方だったのです。私は当時、南警察署交通安全協会の青年部長をさせて貰っていて、その方とは1週間前の会合で、共に酒をくみ返した関係にあったので、こんな不思議な出会い方があるのかと自分でも驚いてしまいました。
するとその方が許可担当官に『何事か』と尋ねられ、事情を聞いておられました。許可を取るのに警察、市役所、国立公園事務所他6箇所の印鑑を貰わないといけない云々、説明を聞いていましたが、いきなり大声で
「ワイが走い廻れば、スンこっじゃが」(お前が全部やれば済むことだ)
と怒鳴られ、「こん人は、お父さんの代から30年以上、警察の協力をしっもろちょったっで、こげなときこそ、オイたっも加勢しっやらんごてよ」(警察の協力をしてもらっているんだから、こんな時こそ、俺たちも協力してやるべきじゃないか)と言ってくださったのでした。
有り難いことに、その方々のおかげで、翌日の午前中には道路使用許可が下り、ホッと胸をなでおろしたのでした。(長年、カゲでこつこつと交通事故防止活動を続けてきたことが、こんなところでかくも大きな力を発揮するのかと、つい天を仰いでしまいました。その時、愚直に「世の為、人の為」と言いながら、人命の尊さを訴えつづけていた亡き父親の功績が認められたように思え、「父ちゃん有難う」と心でつぶやき、涙していたものでした。)
それから急いで染め上げたのぼり旗を100本、全社員で西鹿児島駅、桜島、天文館方面に取り付けに行こうとしていた矢先、長渕の奥様(志保美悦子さん)から電話が入ったのです。
彼女はとても困った声で、「明日までに旗を作って欲しい」と言うのです。難しい仕事だな、と直感した私は社員に対して、今の仕事を中断し、全員ですぐ桜島の会場へ行くように指示しました。
現場に着くとすぐに担当者に事情を聞かせてもらい、どのようにすべきかを話し合っていましたら、突然、長渕本人がその旗のことで私と話し合いたい、と面会してくれました。しかし、長渕はコンサート直前でかなりピリピリしてたので、私は余計なことは何一つ言えず、結局、本人の意向を聞くだけで「ハイ、わかりました」としか言えませんでした。
長渕から、「1年以上かけて築きあげた桜島の舞台、そこにはどうしても会場全体から見える、シンボルの旗が必要なんだ」というその強い思いと、「その旗がないとコンサートにならない、何とかしてくれ」との訴えを長渕本人の横で聞いた私は、さあ、これから恩返しだ、是が非でも望み通りの旗を仕上げて見せるぞ、と強く決意したのでした。
・高さ30mのメインポールに翻る三角の旗
・縦1.8m、横6.5m、2枚繋ぎ、ぼかし染め
それからステージ裏の事務所で、デザイン担当者に出力用データをみせてもらいましたが、どれも印刷用の画像ばかり。これでは型が作れない。我が社のオペレーターと志保美さん、デザイン担当者が全てのパソコン画面に頭をくっつけ合い、あーでもない、こーでもないと言いながら、時間だけが過ぎていきました。「ここにあるデータは全て使えない、さあどうする」と絶望感が漂っていたとき、そこへ全く関係のない舞台係担当の人が急に現れ、「ホテルにたまたま置いてあったから持ってきた」と言いながら「俺の持っているCDにもなんかあったぞ」といって、バッグから取り出してくれました。早速、それを開き、確認してみると、やはり同じように画像ばかり。これもダメかと、ほとんど諦めかけていたときでした。一番最後のデータをクリックしてみると、なんとそれだけアウトライン化されたデータが入っているではありませんか。不思議でした。
これまでその成り行きを祈るような思いで見つめていたスタッフ一同は、何とも言いようのない表情でホッと肩をなでおろし、良かった良かったと言って、私たちに「後は頼みますよ」とバトンを渡してくださったのでした。
早速、オペレーターは会社に戻り、型の制作に入りました。(当時はインクジェットが無かった為、型作りも染めもすべて手作業)
他のスタッフは手分けしてのぼり旗の取付に廻りましたが、それが終了したのは夜の10時過ぎていました。彼らはすぐ会社に戻り、食事もとらず工場に入り、染めの準備に取り掛かりましたが、頂いたCDのデータが重すぎてパソコンがスムーズに動かず、思うように進まないので、工場の者たちがサポートに入り、いま出来ることをお互いに協力し合いながら、一つ一つ作業が進んでいきました。
しばらくして型が出来上がり、全員が力を合わせ、染めの作業に入りました。上下2枚繋ぎ合わせにする為、柄を合わせるのに苦心します。特にぼかしの処は手作業でしか出来ないので、ここに一番時間を費やし、エネルギーを集中したのでした。
そして染めの作業が終わったのは、午前6時。いつのまにか外は明るくなっていました。すぐに縫製担当が来てくださり、仕上げ作業の末に、この旗が完全に終了したのは午前9時でした。早速、桜島の担当者に電話しました。その方はコンサートの総責任者で、心配のあまり一睡も出来なかったそうです。「完成した」と報告すると、「本当ですか、本当に出来たのですか、有難う、有難う」と何度も何度も感謝していました。
午前10時過ぎ、車で現地に届けますと、志保美さんをはじめ、30名ほどのスタッフが待っておられました。皆さんが取り合うようにしてその完成した旗を拡げると「オーッ」と歓声が上がり、「ウワー、ほんとうに出来たんだ、信じられない」と言って驚いていたものでした。
その旗を、スタッフが既にスタンバイしていたクレーン車のゴンドラに乗せ、30mのメインポールの先端に装着し終わると、シンボルの三角旗が会場高く風に乗ってゆったりとそよぎ始めました。その姿を見つめるスタッフの皆様の顔には、なんとも言えない清々しい笑顔が溢れていたものでした。
その場におられた皆様の安堵の表情を見届けて、私は会場を後にしました。
その夜行われた、最初で最後の壮大なる桜島オールナイトコンサートが、どのようなものであったのかは皆様の周知の通りであります。
後日発売された「桜島オールナイトコンサート」のDVDを見てビックリ、なんと最初にこの旗が登場していたのです。ヘリから会場全体を見下ろすように撮影されていて、長渕が言っていたようにどこからでも見えるこの旗が、スポットライトに照らし出され、燦然と輝き、この大コンサートのシンボルとして、大きく揺らめきながら、夜空に龍の如く泳いでいたのでした。
出会いとは不思議なものです。たった一枚の旗のことで縁が生まれ、長渕剛のスタッフとの間にも、大きな信頼関係が築かれることになりました。
以上が「桜島オールナイトコンサート」に協力し、そこで起きた出来事の一部始終です。
(実際は他にも不思議体験は起きていた)
今回の事の始まりは≪長渕剛の命懸けの姿勢に感動≫した私が、自分たちが出来ることでお手伝いしたい、との願いが発端でした。しかしこのような経験をさせて貰ったことは、当初思いもしなかった大きな成果を私たちにもたらすことになりました。
それは私たち社員一同が≪長渕剛の願いに応えたい≫とみんなが心を一つにし、「他人のお役に立つことの喜びを共有する」ことができたということです。それは何にも勝る大きな収穫であったと思います。自分たちが今やれる精一杯の力を注ぎ、期待に応えられ「みんなで響働することの大切さ」を、身をもって経験させてくれた長渕事務所の関係者には、本当に有り難く、深く感謝しております。
それからというもの私は自分の考えを変え、社員は「全員で掲げる夢を実現させる為の同志」と思うようになり、お客様に対しては「新たな商品開発やサービスなど、レベルアップに挑戦するためのパートナー」と思えるようになりました。
私たちが作る旗はひとつの「もの」ではありますが、今回このように大きな役割を果たしてくれたことによって、旗そのものには魂が宿り、個性を持って生きていると感じられるようになりました。
さて、先日のこと、定年を迎えられたある男性が、私共の会社に【お孫さんの名前を自分で書いて旗を作りたい】との要望で来られ、私の前で旗の生地に直接筆で描いていただきました。それが終わってからお客様に「定年退職記念に奥様に何かプレゼントなさいましたか?」と尋ねてみましたところ、即座に「そげなこちゃ考げたこっもなか」と言われたのです。そこで私から提案し、この旗で奥様に感謝のメッセージを送ってみませんか?と勧めてみましたところ、ジーっと天井を見つめ黙ってしまいました。
しばらくして、「今ずい、嫁さんにプレゼントなんち、したこっがあったどかい、んーっ、ないもしちょらんどなー」と言って奥さんのことを思い出しておられたのでしょう。とてもシンミリとなされ、奥様に対し「申し訳がなかった」と言わんばかりの表情になっておられました。
そこで私は半年前の出来事をお話させていただいたのです。
東京ビッグサイトで開催された《中小企業総合展》に出展した際、会場に来られた大手銀行の元支店長がフラッグタナカの【手染め体験会】に興味を示され、ご自身の定年退職記念にと、奥様へのメッセージをご自分で書かれました。(これがまた、下手な字で)まず奥様の名前を書き『いつも笑顔をありがとう』と大きく書かれ、最後に小さくご自分の名前を入れられました。
この方は終了間際に来られていた為、その旗はこちらで預かり、鹿児島に帰ってから私どもで染め上げ、額縁に入れてお送りしたところ、プレゼントされた奥様は大変感動なされ、その額縁を抱きしめ大粒の涙を流しながら、
「あなた、ありがとう、ありがとう」
とまるで女子高生みたいに泣きじゃくられたそうです。長年奥様が泣いたのを見たことがなかったので、ご自分が一番ビックリしたと言われました。たまたまその場に居合わせた娘さんも、両親のそのやり取りに感動してしまい、「パパもやるわね」と言いながら、両親が本当に深い愛情で結ばれていることがわかり、心から嬉しかったと言ってくれたそうです。電話で、《あなたのおかげで女房と再結できた。本当に良かった。この一枚のメッセージで家族の絆が保たれました》と、お礼とともに連絡してくださいました。実は、銀行勤務中から、奥様は娘さんに「パパはいつも夜が遅いし、単身赴任が多いから私たちは母子家庭なのよ」と言っておられたそうです。娘さんは、「いつか、両親は離婚するのでは」とずっと不安を抱えていたが、このメッセージを見て安心したと長年の悩みを打ち明けられ、共に涙したそうです。
心が伝わる、通い合う、そして信じ合える夫婦になられたんだなあと思うに至り、私まで感動させられました。
この出来事を先ほどの方にお伝えし、ぜひチャレンジなさいませんかとお勧めしたところ、「それじゃあ」と恥ずかしげに、まず奥様のお名前をお書きになったのです。ところが、奥様の名前「恵子」という漢字を書き始められたのですが、なんとその簡単な文字がわからない、どんな字だったかな?と言って、筆が止まってしまいました。確かに間違っています。正直あきれました。横棒が一本多いからです。それでも何とか文字になるように工夫し、そして、中心に大きく「いつも一緒に歩いてくれて、ありがとう」と書かれ、端に自分の名前を小さく入れてもらいました。
翌日、染め上がった自分なりのオリジナルメッセージ旗の額縁を奥様にプレゼントなされたところ、奥様から「結婚以来、あなたから初めてのプレゼントね」と言われたそうです。数日後、夫婦で挨拶に来られ、いま床の間に飾ってありますと報告をくださいましたが、あの日から奥様の表情が変わり、嫁いだ娘さんからも「なあにこれ、お父さんらしくないわね」と言って冷やかされながらも、家庭内が随分明るくなり、夫婦で一緒に出かけることが増えました、と喜んで頂いておられる様子が私の心にもジーンと伝わってきました。
当社では、【染まらない染料で染めをする】という方法を編み出し、透明のその染料でお客様自身で文字を書いていただき、その後私どもで手を加えることにより、お客様の文字が染め抜きになる、浮き上がってくるという染色方法を開発いたしました。実際に東京の展示場では大変な反響を呼び、たくさんの方々が自分なりの書体で書いた一枚だけの旗を、とても嬉しそうに持ち帰っていかれました。ある人は、3日間毎日来場され、一人で5枚描いて大変満足しておられました。
「下手なんだけど、自分なりのこの字に満足した。『あいだみつを』よりずっといい」と言われる方がほとんどでした。
▲ 書道の先生が左手で書かれて額装したもの
私たちが作る旗は決して使い捨てではありません。
一枚一枚がお店の営業マン、
従業員の代わりとなる存在です。
私たちは「切ったら血の出るような」
ものづくりを念頭に置き、
生きた旗作りに努めています。
"旗は染抜かれてこそ旗である"。
私たちは長年手染めに拘り従事してきた経験を基に、
裏までしっかりと染め抜かれた
魂の籠った旗を社員一丸となって制作しています。
来店されるお客様を他人と思わず、
親・兄弟・親戚・お世話になった方からの注文と思い、
自分達が出来る精一杯の技術と真心、
そして「魂」を込めて製作させていただいています。
ここで作られたものは全て私達の分身です。
フラッグタナカは1953年の創業以来、受注生産体制でお客様の要望に応えてきた。
一枚一枚に真心こめて製作し続けてきた私たちはこれからも伝統的手法による[手染め]にこだわり、
テクノロジーの進化による最新技術も取り入れた、伝統的技法と最新の技術を融合した企業を目指しています。
毎日、朝礼に先んじて全員一緒に原稿を目の前に置き『入魂式』を行っている。
お客様の立場、心になり、私たちの「魂」を込めて送り出します。